ガルテンローブの教科書

Odette GARTENLAUB先生の教科書の出版を、
お勧め楽譜サイト(Di-Arezzo)にて検索すると、
100件以上の楽譜が出てきます。
その中にPreparation au Dechiffrage Pianistiqueシリーズがあります。

この教科書は題名通り「ピアノ初見のための準備」のもので、
初見のための様々な練習を想定されて作曲されています。
どの練習曲集でも同様なことが言えますが、
ツェルニーに各作品群のように、弾くことにより技術を得られるものと
この教科書のように「ただ演奏するだけでは意味をなさない」作品が
あることに注意する必要があります。

この時期に音楽の他分野、聴音や和声、対位法についても
多くの教科書が発刊されました。
いわゆるソルフェージュ・ド・ソルフェージュの時代です。
各技法は非常に細分化され、また論理的な組立てがなされました。

フランス人らしい理詰めの教科書となっているのですが、
前述したPreparation au Dechiffrage Pianistiqueという教科書では、
その理念というものは言葉ではほとんど書かれておらず、
楽譜の利用法もフランス語でヒントのような一言しか、
添えられていません。
つまり完結した作品ではなく、これを利用して
様々な練習を考えましょう。という教科書です。

この教育方法は私が習った頃のコンセルヴァトワールにても
見うけられました。
個人主義が発達するフランスでは他人の演奏について、
担当の先生でも干渉しません。
しかし、これはすべての個性を尊重しているのではなく、
単に干渉しないだけだ。と感じたのは、
ラヴェルのクープランの墓を見ていただいた時のことです。

このメヌエットには「小さな音符は拍と共に弾かねばならない」と
記されているのにもかかわらず、良く読まずに拍より前に装飾音を
弾いてレッスンに持って行きました。
その途端「君はそう弾くのね」との一言でレッスンは続行されました。

フランス語が未熟だった私は、どうしても先生の態度が気になり、
自宅に帰った後、楽譜を丁寧に見直したら、
下欄に注を発見し、重大な間違いに気が付いた次第です。
つまり、作曲者が指定した音楽表現さえも、
「意思をもって変更している」と受け取られていたということです。

自分の重大なミスも、異なる文化圏で生活した者には、
気が付かないことがある。という事実に愕然としました。
まして、注意書きのない教科書を自分自身で使うには、
他の多くの資料から、再創造するしかないと、
日本人が西洋音楽を扱う道のりの遠さを実感した場面でした。

だからと言って、あきらめる必要はないと考えています。
音楽の素晴らしさはいわずもがなです。
なら自分で探し、創造していけば良いのでは。と考え方を変えました。
逆に言えば、フランスの先人たちもそのようにして、
あの素晴らしい時代を創っていったのだ。
と後々に多くの資料で知ることになります。
工夫することの正しさや楽しさを続けて行きたいと今でも思います。


投稿日

カテゴリー:

, , , , ,

投稿者: